詩吟の顕著な歩みとなった時期は、1930年(昭5年)に遡り、世は挙国一致論を
提唱した近衛文麿内閣が誕生したころである。

この頃、当会の秦紫洲先生は、関西吟詩同好会の師範として活躍され、ほかに、
真子西洲氏がこの宗師範(名は武晴・関西大学生)であり、師範代には藤井芳洲氏
(関心流宗家)と八木哲洲氏(同好会)が夫々分担。

4万人余りの会員を指導されていた。

昭和8年に同種同根の分家独立として直ちに紫洲先生は大日本明吟会を設立。

会長として関西阪神間を主に教場を設けられた、産業界に働く青年の精神文化の
高揚のため、質実剛健の気風を養う吟詠奨励に只管奔走されたのである。

当兵庫本部は、昭和13年1月に北川紫峰氏が会長補佐として、川鉄を大緑紫雲氏
に川車を川久保八重夫氏と赤塚紫龍氏が、川航を竹中紫明氏に、大開を辻紫扇氏
と有地紫涛氏に、三宮警察を林紫岳氏に、柳原を岩井紫晴氏に夫々担当を置き
師範流吟普及に努力されたのである。

戦時中昭和16年から同18年までは生田公会堂や御影公会堂で大会をおこない、
剣詩舞のあるときは海員会館等にて合同大会を開催。時局を鑑み一億一心を
目指した本宮三香作の吟題が特に多く発表されたことを記憶する。

昭和19年にはいって戦火が熾烈を増し軍隊への召集や志願者多い中、優秀な
吟者達は戦地に赴き苦難とたたかい乍ら終戦となる。

吟など出来る状態でなく意気消沈となるも蓋し、戦後は混沌たる廃墟の中、
昭和23年末ごろまでは着の身、着の儘の生活状態から
漸く吟詠再興の促進
への兆が翌年ごろから見えはじめられ、23年11月26日に
当日本明吟会主催の吟詠剣詩劇諸芸大会が神戸の若宮小学校大講堂で
開催される。このとき兵庫県支部長に小笠原紫暁師が開会の挨拶を
述べられており、この大会役員に岩井弘阡、林儀衛門、水原角太郎、
西脇義光、鎌尾利夫氏の懐かしい名前を見ることができる。

このようにして各支部毎に再開を機に、秦宗家の来神が叶えられ、且つ
組織改革などにともない支部から地区制に移行されてゆく。

昭和30年には当本部長に岩井紫晴師が北播地区に辻紫扇師が選出、
同43年に西播地区に梅内紫蓉師をして基盤の拡充に力を注がれた。

また、40年には梶野紫聖師が、50年に井野紫幸師、52年に
津地紫秋師、平成2年に現在の田川紫萩師がそれぞれ当本部長として
会長の責務を遂行された。平成14年3月、同師が総本部会長に昇進
されたので、そのあと阿江紫闘師が当本部会長に推挙され、今日まで
円滑な運営のうちに会勢を推進されている処である。