紫洲流日本明吟会のあゆみ

 

 開祖は秦紫洲宗家である。師は高松師範当時から琵琶をはじめ漢詩和歌の朗詠をば、平尾光霜に師事されるも、その洞察力は群を抜いての頭角を見、その上吟界の黎明期をも得て、一挙に吟詠志向が開花するに至った。この間宗家は吟道興隆のため挺身され、明吟の基いを築かれたが、その遠大な構想は優秀なる好人材を生み、且つその揺るぎない指導態勢をも維持されながら、斯界唯一とも言うべき詩吟教範の作譜起用に成功され、名実共に畿内一円に、この吟法が風靡し乍ら、吟士相互の研究に一翼を担っていったと思われる。

このように宗家は、師範校卒業後、各地に奉職されながら、昭和初年に大阪へ赴任。昭和8年には同市の委嘱として、桜ノ宮・明吟天皇記念館で詩歌朗詠の講師になられ、吟詠の指導に努められ、大日本明吟会を設立して、自ら会長となり子弟育成に専念された。

 一方、昭和13年に吉田益三氏の提唱による、愛国詩吟連盟の結成にも尽力されながら、同年の第1回一般の部・吟士権者決定大会が開催されるや、同新人の部において北川左馬之助氏が見事優勝。また、第二部指導者の部には、秦宗家が吟士権者の栄冠を獲得されて、幸先よく関西吟会に明吟の名を高揚せしめられたのである。

昭和15年頃には組織拡充により秦宗家が会長に、副会長には、土橋松籟、士清水浩洲。師範に北川紫峰、矢間紫水、宮下紫城、赤塚紫龍の各先生のもと指導体制が整えられた。

 以来毎回の当吟士権者決定大会でも、当会より優秀吟士が優勝。かつ上位入賞をするなど、昭和16年度の第4回には、一部に赤塚紫龍、二部に北川紫峰、また一部の内2位・3位と入賞者に三十名もの同志が記念楯を受賞した。このように当時の会勢は、とみに拡大し、然も吟詠界は、戦意昂揚に活かされ、大東亜戦争終結時には、世時混乱に追い打ちをかけるように、連合軍の指令にはばまれて消灯沈滞する。

 本会は、幸いに秦宗家の挺身的な努力によって、昭和21年頃より兵庫に、大阪にと再興の兆しが見えはじめる。

 兵庫に荒木紫虎・大阪で矢間紫水・寺田紫鳳・原田紫彪・大塚紫山・福井に宮下紫城と各幹部が宗家を支えて再出発を誓った。

 まず、兵庫県吟詠連盟が復活。昭和25年第1回吟士権大会開催。続いて27年吉田益三氏を中心に愛国詩吟総連盟が再発足。翌年6月9年振りに第8回吟士権者決定大会開催。次々と吟声大いに上がって行く。

 この間、当会も秦先生が紫洲流宗家となり、二代目会長に矢間紫水が昇格し、紫洲流日本明吟会として、大いに飛躍の気運が見えたが、その矢先、昭和33年秦宗家が病魔に冒され長い闘病生活を余儀なくされる。この頃から総本部の運営も前途多難を思わせたが、矢間会長が中心となり、寺田・原田・大塚の三副会長ほか幹部役員が一致団結。宮下・荒木が副会長として隆盛期を約してゆく。

 昭和41年矢間会長が諸事情により勇退、そのあと寺田会長を始め原田・荒木・大塚・宮下の各副会長のもとで、45年7月24日初代宗家は十有余年の闘病のあと、ご家族の手厚い看護も空しく遂に他界されたのである。

 本葬も終わった或る日、幹部会の総意で二代目宗家にご子息正俊氏(紫靖)を推戴し、二代目を継承されたのである。

 その後一周忌大会、三回忌の追悼大会、総本部四十周年大会等々、会員の協力によって大過なく遂行される。

 昭和49年5月23日、初代宗家の顕彰碑も高槻市の神峯山寺に建立されて、五十年代を迎える。同五十一年七月十一日7回忌追悼記念大会を大阪厚生年金会館にて行う。

 三代目会長寺田紫鳳師、昭和42年から平成4年までの25年の永きに亘り、北は北海道・南は九州の各派各会首脳者との交流交歓に奔走。特に吟法統一のため各地区への師範講習会等に全力を傾けられ、会の発展に貢献された。

 なお当会長は任期中にあって、先宗と二代目宗家を失う。そして各回忌には神峯山寺法要を会員と共に参詣する。物故者に対する供養を滞りなう行い、円滑なる会の運営をはかる。

 しかし、総本部の四十五周年・五十周年と五十五周年記念大会をも無事遂行されるも、平成3年9月12日病気加療中、薬石の効なく、天寿を全う永眠された。同会長なきあと、宮下紫城(福井会長)が会長代行をつとめる。翌4年4月に四代目会長に大阪地区会長の寺田紫興師が就任するも、また同師も突然の病いにより翌5年1月に逝去される。

 創立六十周年大会を、平成5年11月14日に大阪万博ホールにて開催することで、前会長が精根を倒けられていたのにー。まことに哀惜の念に堪えなく空しい限りである。

 そのあと総意結集、総会の賛同を得て、五代目会長に井野紫幸師が平成5年4月から就任。同会長の信条のもと、吟人は吟人らしく和顔愛語。会員相互信頼の上に立ちながら、博識ある紫洲流の21世紀に向け堅実的な進展をみた。そして平成14年役員改選により同会長を勇退。同年4月、第6代同会長に田川紫萩氏が推挙。現在堅実的な指導方針を確立のうえ、各府県本部との協力のもと、把手共行!一致団結!近代的な理想のもと、誠実一貫もって斯道発展のため日夜邁進中であります。

 

「紫洲流七十年史」 より引用


TOPページ